高知の魂

 冷えてきた。秋到来。
 毎年、岡山最後の(高知にいた時は高知最後の)Tシャツ1枚の人になろうと心に誓うのだが、いつも負けてしまう。今日からは長袖の人。コンサヴァティヴ。オポチュニズム。
 寒いのは嫌いだから、秋は近付く冬が意識されて、厭な季節。冬は春を待つ気持ちがあるから、まだ気分は楽。
 昨晩、テレビでよさこいを見た。東京での、全国から踊り子団体が集まる「スーパーよさこい」だったのだが、やはり本場、よさこい発祥の地、高知からのチームはどれも抜きん出ていて、さすがだと思った。
 このように、よさこいは今や全国に広まった。だけれどやはりよさこいを見たら、故郷が思い出されて、ホロっときた。高知に生まれ育った者として、よさこいは細胞の一片まで染み込んだ、魂に響くものなのだと改めて思った。よさこいの時期はこちらでも繁忙期になるので、倉敷に来てからの4年、見に帰っていない。
 「よさこい鳴子踊り」の音楽は、民謡「よさこい節」のメロディーを含んでさえいれば、様々なアレンジが許され、ロック、サンバ、テクノなんでもアリなのだが、それを聴いて育った私は、民謡に接近したソウルフラワーをものすごく自然に受け入れた。民謡を受け入れる素地があったのだと言える。(それだけではなくてソウルフラワーはいろいろな意味で「理想的ロックンロール」であるのだが、それはもっと広い意味を含み、大きな話になるので、今日は置いておく。)
 よさこい祭りについては、賛否あって、批判の声は年々大きくなって来ているようにも思う。民謡「よさこい節」に基礎を置いているとはいえ、歴史的な祭りではない。たった60年弱の伝統しかなく、財界主導で始められたイヴェントである。だけど、その短い時間でも、高知の人々にとっては、なくてはならない「祭り」になった。それに伝統がないからこそ、他県にも伝播し得たとも言える。コンテスト形式であることも批判の対象であるが、皆が皆、賞だけを目指している訳ではなく、何より参加することを楽しむ意識は遍くあると思う。
 しかし、実を言うと、私は祭りで踊ったことはない。参加したことはなくても、市内あちこちに競演場はあり、毎年見てはいたので、ひどく身近ではある。ちなみに高知市内の小学校ではよさこい鳴子踊りは運動会で必修なので、クラシカルな「正調」ならば踊れる。
 昔のはてなダイアリーに書いたことではあるが、よさこい節の起源は高知城築城の時のワークソングであったとの説がある。もしそうだとすれば、高知という街とともに育ってきた唄であるということだ。だから、我々土佐の高知の人間は、こんなにも惹きつけられるのだろうか。

http://d.hatena.ne.jp/kannou/20051014
http://d.hatena.ne.jp/kannou/20050124