源平時代の土佐

 やはり大河ドラマで取り上げられるとその年その人物はブームになるようで、今年は義経本をよく見かける。でも、ドラマは毎週見ているが、自分の中ではあまり盛り上がらない。主役が大根だからだろう。義経主従の場面ではまるでコントのようだ。
 これはあまり地元でも知られていないが、源義朝の五男である源希義(まれよし)は、平治の乱後、土佐の地に流され、介良荘(今の高知市介良)に住んだ。古代より土佐は流刑地であった。義朝の五男ということは、義経の兄、頼朝の弟である。
 1182年、全国の源氏による平家討伐の動きに呼応して立とうとするが、平家側に察知され、討ち取られた。四国は平家が強かったのだ。
 最近、地元ではこの史実を広めようという動きが活発になってきているらしい。大河の主役にはなり得ないが、一場面として描かれてもいいのではないか。次に義経の大河が作られるのは20年後くらいだろうか。その時には是非。
 四国には平家の落ち武者伝説が多い。安徳帝の墓だけでも数ヶ所あるのは笑える。
 平家の里は、かづら橋で有名な阿波の祖谷(いや)が有名だが、土佐の山間部にも平家の里を自称するところは多い。落人といっても郎党など末端の武者であったり、後世にそれぞれの土豪が箔付けのためにその子孫を自称したり、なのだろう。
 3年前、高知の越智町にある横倉山(774m)に登った。当時山登りを始めたばかりで、随分としんどく感じたが、今登ったとしたら、そうでもないのだろう。確かに、傾斜は急だったとは思う。
 越智町も平家伝説の残る地であり、横倉山の山中には戦前宮内省より認定された「安徳天皇陵墓参考地」がある。山頂付近には安徳帝を奉った「横倉宮」もある。その社の向こうは「馬鹿だめし」と呼ばれる断崖になっている。「馬鹿しかその突端まで行けない」くらい険しいという意味らしい。
 平知盛の墓も伝えられるが、壇ノ浦で「見るべきものはすべて見た」と言って碇を抱えて入水する知盛こそ武者としての華を感じさせるのであり、生きていたとなれば、その価値は下がるというものかもしれない。
 また、この山は同町出身の植物学者の牧野富太郎博士が日夜分け入り、植物採取をした山でもある。
http://s-net.on.arena.ne.jp/kochi/kankou/takaokagun/ochikankou.htm#
 そういうことで、四国には平家落ち武者の子孫を名乗る人が多い。