卑怯者と言われて

備中松山城

 先日、といっても、2週間くらい前だが、雨の降る日、ひとり岡山城跡に行ってきた。
 備中松山藩の藩主、板倉家の遺品展を見るためである。
 その黒い威容から、烏城(うじょう)として名高かった岡山城であるが、天守閣は戦災で消失し、今建つのは昭和の鉄筋作りの復元天守閣である。しかし、櫓や藩主の庭園であった後楽園は現存している。
1 0年以上前であるが訪れたこともあり、現在の天守閣やその内部の展示物がいかに面白味に欠けるものかというのは承知していたが、板倉家に遺品の展示は楽しみにしていた。
 しかし、展示品の数も少なく、800円という期間中の特別料金に見合った内容ではなかった。それに、備中松山藩の遺品であるのだから、備中松山城内で行うのは無理としても、現・高梁市で行うべきものだと思うのだが。
 ちなみに、備中松山城は現存する天守閣中で、最も標高が高くにあるらしい。430mである。その縄張りは近世の平城などに比べれば、簡素な物であるのだが、趣があって興味深い。なお、そんな高所にあるので、平時の政庁には用を成さず、政務は山麓に置かれた御殿で行われたらしい。実際、門など、外から施錠できる構造になっていて、無人にすることもあったようである。
 で、岡山城であるが、ひとつ面白く思ったのは、宇喜多家について非常に力を入れて紹介しているところである。
 近世城郭としての岡山城を最初に築いたのは宇喜多直家であるが、藩政時代以降の現在の縄張りは小早川秀秋やその後藩主となった池田家によるものであるのだが、明らかに力の入れれようが違う。
 宇喜多家は備前土着の大名であり、小早川、池田は外来の大名であるので、郷土ナショナリズム的愛着が違うのであろう。現在に続く城下町岡山の発展に、より寄与したのは統治期間の長かった池田家であるとは思うのだが。まあ、これは土佐人が長宗我部家に愛情を感じるのと同じである。
 ビデオの上映装置があって、そこでは宇喜多秀家の母のモノローグという形で、宇喜多直家・秀家親子二代を振り返るというビデオが流されていて、その中で、関ヶ原後城主となった小早川秀秋はまったくボロクソに言われているのが可笑しかった。
 秀家は関ヶ原で西軍につき、敗戦後、領地没収の上、八丈島に流され、流人としてその生涯を終える。その子孫も本土に帰ることが許されたのは、幕府が倒され明治となってからであった。
 ただ、私は小早川秀秋という若者には同情を感じる。
 前に読んだ本によるとだが、秀秋にはどうやらどちら側にも積極的につきたくはなく、両方に曖昧な返答をしていたようだ。
 当初、戦いは石田三成が篭った大垣城で行われる観測であったが、それが関ヶ原となり、主戦場から離れたところに布陣していたつもりが、否応なく戦術的に重要な場所に置かれてしまった。おそらく、家康側に寝返った時にはヤケクソ状態であったろう。
 合戦後、味方となった他の大名からでさえ、「裏切り者、卑怯者、武士の風上にも置けぬ」と蔑まれ、備前一国を領する身となっても、鬱屈した精神状態であっただろう。実は慶長の役では、自ら敵将の首をとるなど、武辺を見せる部分もあったようだから、なおのこと悔恨の情は強かったと思う。
 岡山には秀秋が建立した寺院がいくつも並ぶ一角(町名は忘れた)があり、そういう気持ちの表れであったと思う。理由なく家臣を手打ちにするといった乱心もあり、精神に異常をきたすまでになっていた。結局、1602年、わずか二十歳でこの世を去り、跡継ぎもなく、小早川家は断絶し、替わって池田忠継が岡山藩に入封する。小早川の遺臣も「裏切り者の家来」と言われ、再就職に困ったらしい。
 しかし宇喜多直家も、その勢力を広げるにあたり、謀殺、暗殺、毒殺という手段を用いることが多く、なんか陰気で、格好良くはない。やっぱり私は長宗我部である。