またまた長宗我部の話

しかし、信長の四国攻めは、長宗我部氏とのパイプになっていた光秀の顔に泥を塗ることであったし、派遣部隊の人選から光秀を外したことも彼の面目をつぶして、謀反を決意させるにいたる要因のひとつであったことは間違いない。
そもそも「元親陰謀説」は心情的には推したいけれど、可能性はまったくない。仮に元親が仕掛けたものだったとしたら、変後の彼の動きはあまりに無策すぎる。四国に攻め込まれるのが先延ばしになっただけである。
長宗我部氏が「一流」たり得なかったのは中央への政略、外交において無策であったことが大きい。四国制覇においては武力のみならず、かなりの政略、調略、権謀術数の限りを尽くしているのだが、中央政界への疎さは、田舎大名の悲しさであろう。光秀家中から嫁を貰うなど先見性が光るところもあったが、「本能寺の変」後にしろ、秀吉死去後にしろ、「関が原」前後にしろ無作為であるか後手後手であった。
奥州の伊達氏や薩摩の島津氏が幕府との緊張関係を持ちつつ存続したのとは対照的である。
何より、本当に、家運のない一族であった。