デッドマン ウォーキング

kannou2004-02-28

「デッドマン ウォーキング」はティムロビンス監督スーザンサランドンとショーンペン主演の映画である。重大事件の判決のニュースを聞く度、この映画を思い出す。ちなみにサントラ盤はパキスタンの故ヌスラット・ファテ・アリ・ハーンとパールジャムのエディベッダーの共演やミッシェルショックト、ジョニーキャッシュ、ブルーススプリングスティーン、トムウェイツ、パティスミスなどが参加している。死刑を描いた映画である。
昨日、松本智津夫被告の地裁判決が下りた。弁護団は控訴の方針であるが、被告本人は外部と全く意思疎通を拒む状況であるようだ。控訴、上告と続くとしても、死刑判決が覆る事はないであろう。現行刑法の最高刑が死刑である以上、極刑は妥当なところであると思う。だが私は死刑制度そのものには反対である。
今現在の国内の世論としては死刑存置派が大勢を占めるであろう。しかしながら存廃についての議論が十分になされているとは言いがたく、情緒的なものに流されていると思われる。私は以下の理由により、死刑制度に反対である。
まず、新たな「殺人」を「国家」が「合法的」に行う事である。死刑を求刑する検察官、判決を出す裁判官、執行命令を出す法務大臣、そして実際の行為に及ぶ刑務官。左記の法務大臣までは手続上の行為であり実感は薄いのかもしれないが、刑務官に至っては直接に手を下しその目前で殺人が行われるのである。国家の発する行為として、殺人を行わせるというのが「非人道的」でないはずはない。以前、死刑執行に携わる元刑務官の手記を読んだ事があるが、その辛い思いが伝わってきた。少し逸れるが、国家によって死と「殺人」を強要されるという理不尽さにおいて、戦争が否定されるのと近い論拠であると思う。
それと「不可逆性」である。仮にその受刑者が悔い改め、償いをなそうとしても、そのチャンスは永久に失われる。死んではお詫びはできない。池田小の宅間守受刑者にしろ、今回の松本智津夫被告にしろ、おそらくは本人の口から謝罪の言葉も心情の吐露もないまま、深層は闇に消え行くのではないだろうか。ここで刑法の「応報刑主義」と「教育刑主義」の議論もあるのだが、長くなるので割愛する。私は「教育刑主義」に則る方が「民主的」であると思う。
また、民主国家においては、「身体刑」は残虐性故に否定されている。死刑は身体刑の最たるものである。また「抑止効果」として、死刑に他の刑罰に対する「絶対的優位性」はないと思われる。他にも廃止論の論拠はあるが、私は概ね上記の理由により死刑廃止論者である。
死刑を論じるにあたっては、被害者感情について配慮しなければならない。確かに死刑廃止論は、被害者にとって、感情を逆撫でする「冷たい論議」として響くかもしれない。私は死刑を望む犯罪被害者に死刑廃止論を囁く気にはならないし、自分自身がその立場になった場合、その犯罪者に対してはどうしようもない憎しみを抱くであろう。しかしそれとはまた違う次元で、死刑の問題が存在するのもまた事実である。
死刑制度に換わる刑事政策としては「絶対的終身刑」が妥当であると思われる。遺族への補償制度を確立して、懲役で得る収入を基金のようなものに充てる方が有益である。