高知城

翌日は高知城へ行った。来年の大河ドラマ司馬遼太郎原作「功名が辻」なので、観光協会や旅館ホテル組合などはプッシュしていた。「功名が辻」は初代土佐藩山内一豊(やまうち・かつとよ)とその妻の物語である。とはいっても、一豊が土佐に来るのは晩年であり、土佐がドラマの舞台になるのは終盤の数回だろう。
一豊の妻見性院(けんしょういん・小説では千代という名だが、正確には名前は分からない)は賢婦人として有名である。へそくりで一豊に名馬を買い与え、それが信長の目にとまり、出世のきっかけになった。関が原の時には徳川方につくよう工作し、一豊はその戦功で掛川五万石から一気に土佐二十四万石の大名に抜擢された。夫の出世に多大な貢献をしたのである。ちなみに高知ではよく言われる話で、「あれは他国の女の話。土佐の女はへそくりは全部酒代に使ってしまう」というのがある。そうかもしれない。
今だ土佐には「反・山内」的な気風があり、一豊は元親と比べて随分過小評価されている。しかし、長宗我部の遺臣の抵抗激しい土佐を治め、将来「雄藩」となる土佐藩の礎を築いたのだから、官僚として政治家として非凡であったのは間違いない。家康が、一豊を掛川の僅か5万石城主から「難治の地」である土佐24万石の大名に抜擢したのも、それだけの厚い信頼があってのことだろう。ただの「おべっか上手」をそこまで評価するとは思えない。
しかしやはり土佐人の心情としては、一豊は許せない。一豊入国に際して抵抗した長宗我部遺臣に対する弾圧や騙まし討ち、その後の郷士階級への厳しい身分差別など、忘れられない記憶があるようだ。だが、それら遺恨がやがて幕末の勤皇倒幕の運動に結びついて行ったのだとしたら、歴史は皮肉で面白い。
で、この高知城、あまり知られてないが、「鷹城」という別名がある。その天守閣は1748年の建築(初代は火事で消失)で、つまり藩政時代から残る「ほんもの」である。
そして、追手門(正門)と天守閣が一枚のフレームに収まるのは、唯一この高知城だけらしい。
一豊はあまり好きではない人も、この高知城は好き、という人は多いだろう。
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