仏像VSバッタ

ウルトラマンVS仮面ライダー」というビデオがある。「トリビアの泉」でも紹介されたからご存知の方も多いと思う。
ウルトラマン仮面ライダーが夢の共演をする、ビデオのみの企画である。VSといっても、対決する訳ではなく、なぜか仮面ライダーも(奇跡が起こり)ウルトラマンサイズになって共闘するというショートストーリーだ。
ビデオが発表されたのは1993年頃で、私は発売と同時にレンタルし、そのビデオの存在は常識化しているものと思っていたから、「トリビア」で紹介されて「高ヘぇ〜」をマークした時には悔しい思いをした。数千円と「金の脳」を貰えていたものを。
ちなみに特典映像として「スペシウム光線のポーズの仮面ライダー」や「サイクロン号にまたがるウルトラマン」といったショットも収録されていた。
前置きが長くなったが、今日はこのヒーロー界の二大巨頭についてずっと考えを巡らせていた。
結論から言うと、私はどちらも好きである。どちらかというのは決められない。これはストーンズビートルズもソウルフラワーとヒートウェイヴもどちらがより好きとも決められない私の性分なのであるが。
ただ、ごっこ遊びをするのには仮面ライダーの強いリアリティはウルトラマンの比ではない。
机なり公園の遊具なりをビルなどの建物に見立てて、怪獣やウルトラマンの役を演じてみても、どうにも世界観に入り込めない。子供心に虚しさすら感じてしまう。ウルトラマンは巨大だからこそウルトラマンたりえるのだ。等身大に縮む事もできるが、それは「例外的」なウルトラマンだ。
しかし仮面ライダーは「等身大」であり、劇中での闘いのシーンも住宅街であったり身近な光景であるので、ごっこ遊びにも入り込み易い。
スペシウム光線のポーズをしても手から光線は出ないが、変身やライダーキックのポーズを決めるだけで、子供の脳内で彼は仮面ライダーとして成立する。
余談であるが、70年代から80年代初めまでの子供の世界では、自転車で両手を離してライダーの変身ポーズを取る事ができなければ、お話にならなかった。私はその練習中にコケて、ハンドルで股間を強打して泣いた思い出がある。あれは子供でもかなり痛い。
ただ、仮面ライダーは身近に感じる要素が多い分、みみっちさも感じた。ウルトラマンに比較して、仮面ライダーの低予算ぶりを子供ながら感じ取っていたのかもしれない。街が壊されたり宇宙規模の事件があったり、ウルトラマンのゴージャスさにも魅力を感じていた。
ヒーロー像としても、対照的であった。
ショッカーに代表される悪の組織、これらは「絶対的な悪」として存在する。仮面ライダーも苦悩していた。それは改造人間にされた悲しみもあるし、自分と同じ境遇かもしれない怪人と戦わなければならない苦悩もあっただろう。(ライダーはショッカーに誘拐され改造人間にされるのだが、脳改造寸前に脱出し、ショッカーと敵対する事となった。しかし怪人の中には同じく意志に反して改造され、洗脳された者もいるのだ。)しかし悪の組織の世界征服を阻止するという目的自体には疑問の余地はない。正義の味方たるアイデンティティに揺るぎはない。
一方ウルトラマンが戦うのは怪獣や宇宙人である。怪獣が暴れれば、人類に被害が出る。しかし怪獣は概ね本能に従って行動し、人類を外敵として認知し、暴れるのであって、そこには善悪の観念は存在しない。
宇宙人や地底人など、侵略の意図を持って人類に敵対する者も現れるが、そこで話はもっと複雑になる。ウルトラマンは「第三者」なのである。つまりは「代理戦争屋」である。
初代「ウルトラマン」の製作中、怪獣をやっつけるウルトラマンに「正義があるのか」とスタッフ間で問題提起があったらしい。それでウルトラマンが怪獣を助ける話や科学特捜隊が怪獣の葬式をあげる話など製作した。ちょっとややこしくなったので、次回作「ウルトラセブン」ではもっと割り切れる話で、「敵はすべて宇宙から(海底や地底もあるが)の侵略者」で作るという事にしたらしい。ところが敵が知能を持った宇宙人で「地球対異星」という「戦争」に「第三者」であるウルトラセブンが絡むという構成は、さらにややこしい問題提起を生む事になった。
だから「ウルトラセブン」には、国際法に照らせば明らかに地球側に非がある話や日本のアイヌ侵略を寓話にしたような「ノルマントよりの使者」など深みのある話が多い。ここに初期ウルトラシリーズのスタッフの内省的で良心的な姿勢を見る事ができる。
ところで、念の為補足しておくが、私は初期のウルトラマン仮面ライダーもリアルタイムでは知らない。私が現役の子供時代リアルタイム見たのは、それらがシリーズ化して何作目かのである。丁度、小学1年生の年、ウルトラマン仮面ライダーのシリーズが再開された。初期のものは本や再放送などで知った。
ちなみに小学3・4年生の頃「機動戦士ガンダム」の衝撃をモロに受けた世代でもあるのだが、その事は次の機会に書くことにしよう。
ところで、今も仮面ライダーのシリーズは新作が作られていて、(しかし旧ライダーとは連続性はなく、世界観を異にし、続編ではない)たまにテレビを見る事もあるのだが、確かに現代的で新しいのだけれど、「仮面ライダー臭さ」がない。「血と汗の努力」がなく、まるで「ボンボン」なのだ。つまり誰かにアイテムを与えられてパワアーアップしたり、突然さらに上のレベルへの変身ができるようになったり、古き良きライダーにはあった「血のにじむような特訓の末のパワーアップ」ではないのだ。それに変身前に戦わない。おそらくアクションが出来ない俳優を起用しているからだろう。敵と対面すれば即、変身である。一旦生身で戦って追いつめられての変身でないと、カタルシスがない。まあ、「今どき」な面白さはあるのだけれど。
ともあれ、私は今だに自分自身に気合を入れる時、自然と変身ポーズを取り、そうすることによって、新しい何かをスタートさせるような気になる、そういう世代なのである。