室戸に行って来ました。

kannou2012-01-23

 二週間くらい前、室戸に行った来た。「ジオパーク」認定後、初めてだ。とはいっても、ジオパークの定義がよく分かってなくて、つまりジオパークに認定されたというのが主たる動機でもなかったのだが、遠く倉敷で住んでいると、どうしても太平洋の荒海が見たくなる時がある。瀬戸内の海もいいんだけど、やはり生まれ育った土佐の海こそが恋しくなる。
 妻が午前中仕事だったので、倉敷出発は遅め。早島ICから瀬戸中央自動車道を愛車スバルのママコ「トレジア」でぶっ飛ばさない程度に飛ばした。今回は生まれ故郷の高知市内には寄らず、東を目指す。
 丁度、夜須町のヤ・シーパークで日没。ここは素敵な海水浴場。波が荒い高知の沿岸には珍しく遠浅で安心安全な渚。でも一度しか泳ぎに来たことはない。海、海、ちゅうても実はあまり海には縁のない生活を送って来た。海釣りも一回しかしたことないし。海、見るだけ。全然海の男ではない。一時期、山の男ではあったけど。
 渚から見る日没。水平線に沈む太陽。緩やかなオレンジ色。沖の波も今日は緩やかなようだ。
 遅い時間だからと油断していたが、国道55号線はやはり混む。奈半利の宿まで予想以上に時間がかかった。
 入口にクロマグロのオブジェがある「ホテル奈半利」に到着。室戸の宿はどこも満室で取れなかったので、室戸よりちょっと手前の奈半利町での宿泊。でも、このホテルの鮪づくしの夕食はかなり魅力だった。
 ロビーにはマグロ漁船の模型があった。操業中の船内で実際に漁師さんがフルスクラッチしたものらしい。リアルおいらの船は300とん。奈半利はマグロ漁船のドックがあって、ホテルのオーナー会社も造船関係である縁で、借りて展示しているものだそうだ。
 「おいらの船は300とん」はずっと心の中で鳴っている曲。元々、好きな曲であったが、昨年ソウルフラワーユニオンのライヴでカヴァーしているのを聴いて以来、最も口ずさむ曲になった。好きな曲ではあったけど、得体は知れなく、室戸のご当地ソングかと思っていた。室戸水産高校の校歌かと思った時期もあった。室戸だけでなく高知市内辺りでも有名な曲で、三十年ほど前に水産加工業者か何かのCM曲になっていもいた。ググってみたりiTunesで探したりしてどんな唄かは知ったが、各地の遠洋漁業の基地で歌い継がれているというのは、ユニオンのライヴで初めて意識した。そして東北のそんな町々は、どこも津波で被害を受けたのだった。改めて私にとっても特別な意味を持つ唄になったように思う。私の故郷と被災地は太平洋でも繋がっているのだと。
 ただし、その時点ではまだユニオンの音源は持っていなかった。新譜「キセキの渚」は「年末ソウルフラワー祭り」で会場販売にて買うつもりであったが、風邪を惹いて行けなかった。一月に加古川にて別動ユニットのソウルフラワーアコースティックパルチザンを観に行くし、その時でもいいかと。それに倉敷タワレコには置いてなかったし。
 美味なる「土佐鮪御膳」を魚の王様というのを実感しながら食した後、浴場にて星空の露天風呂。満月に近い月。部屋に帰って民放が3チャンネルで迷う必要のないTV放送を見る。テレ朝はないので翌朝ゴーカイジャーは見られない。でも、いい。録画している。
 翌朝、これまた美味なる朝食の後、いい天気に恵まれて、国道55号を東に向かう。海岸線、今日も波は穏やか。荒れた海の方が雄大で景色を楽しむのにはいいけれど。
 それよりも、東日本大震災以来、海を見れば津波のイメージを想起する。南海地震は避けられない。今走っている奈半利の町も、室戸も香長平野も須崎も幡多も、いつか津波に飲み込まれるだろう。前回は戦後すぐの昭和二十一年で、その時は沿岸地域に大きな被害をもたらしたのみならず、浦戸湾を遡上した津波高知市内の知寄町だか菜園場まで浸水させたと、宮尾登美子の自伝的小説「仁淀川」にあったように思う。ように思う、とは、確かめたいところだがその本がどこ行ったのか分からず、記憶を頼りにこれを書いているからだ。
 その時、私は何処にいるだろう。何処にいたとしても、郷土のために何かをしなければならない、と思う。何ができるのだろう。それは考え続けている。
 ともあれ、海岸線を東へ走り、室戸市内へ入り、道の駅「キラメッセ室戸」で小休止。併設の「鯨資料館」を見学。捕鯨の歴史。我が民族はずっと鯨を食べてきた。そして感謝の念もけして忘れなかった。油のためだけに乱獲した連中に何も言われたくない。
 ジオパークの資料館も見学。この時「ジオパーク」という言葉の定義を知る。海の特殊な岩のことだけではなかったのね。「地球科学的に見て重要な自然遺産を含む、自然に親しむための公園」のことか。
 岩石のサンプルもあり、多分高知大学の地質学の先生だと思うが、ガイドさんが解説してくれた。でもすみません、理数系ホント弱いのでほとんど頭に入らなかった。
 さらに55号線を東へ向かい右手には海を見て、いくつかの漁村を抜けて、室戸スカイラインに入り、「第二十四番札所 最御崎寺」へ。いつか八十八か所は本格的に廻りたいとは思う。真言宗の信徒ではないけれど、四国に生まれた者として、弘法大師には尊崇の念を持つ。
 その近くには室戸岬灯台がある。高知県内の高校では多分どこでも「この問題が解けたらトウダイに行けます。室戸の灯台やけんど」というギャグをいう先生がいる、と思う。何故足摺岬や桂浜ではなく室戸なのだろう。
 室戸では海からすぐに急な山がそびえていて、室戸スカイラインも急な山を登り、展望台からは太平洋が一望できる。天気が良く、空気もきれいだったのか、足摺岬までは流石に見えなかったけれど、雪を戴いた山々が遥か遠くに微かに見えた。石鎚山系だろうか。季節は夏だったが、筒上山から太平洋が見えたことがある。つまり、瀬戸内海、百八十度回転して、微かに太平洋、という感じだった。そこまで見えるのは珍しいらしい。だから室戸から石鎚山系が見えるのも、アリかと思う。
 スカイラインを降りてまたキラメッセまで戻り、鯨のタタキ定食を食す。でもあまり美味くない。鯨はタタキには向いてないってことだったのか。キラメッセは他の料理は美味いのだが。
 また55号を東上し、室戸岬へ。「青年大師像」前から「中岡慎太郎像」まで歩いた。
 海岸に遊歩道が続く。キラメッセで地質学者のガイドさんに話は聞いてパンフも貰っていたのだが、奇岩が並び、それが続き、それぞれに違うもので形も面白くは思うのだけど、岩石の分類学上の区別はつかない。
 室戸岬には「ビシャゴ巌」という岩があって、その伝説は室戸市のHPに「ビシャコ巌−この巨大な巌lこは悲しい伝説があります。昔この附近に「おさご」と呼ばれた美人が住んでいました。その余りの美しさに多くの男達が朝夕この所に舟を漕ぎよせて来て彼女に愛を求めようとしました。彼女はその煩しさに耐えかねて遂に美女が生まれないように祈りながら巌頭より投身したと伝えられています。が、「おさご」の命をかけての願いも空しく、その後も室戸には沢山の美人が生まれています」と、ある。だから、室戸に本当に美人が多いのか、というのを確かめることが旅の隠された目的であった。でも、あまり地元の人との接点がない急ぎの旅であったので、真実は確かめられてはいない。
 室戸岬弘法大師が悟りを拓いた地とされていて、いくつもの伝説が残っている。詳しくは室戸市のHPでも見て下さい。
http://shikoku-net.co.jp/kochi/kankou/murotoshi/murotokankou.htm
 このころツイッターを始めたばかりで、それはいまでもそうだけど、つぶやくこと自体が嬉しく、何を見てもつぶやかずにはおれず、物見遊山よりもツイッターが目的化しているような妙な感じもする。
 室戸の海は、近くで見ると水が澄んで、遠くには深い青さがどこまでも広がる。潮の香りは落ち着く。海は美しく、しばしば凶暴で、嵐は海からやって来るし、津波を立てて飲み込んだりもする。そして「板子一枚下は地獄」という漁師についての言葉も思う。この町でずっと育まれてきた人の暮らしを思う。
 中岡慎太郎像前へ。東部では龍馬よりも人気がある。寧ろ、全国区の龍馬に対して対抗意識があると言ってもいいかもしれない。もし、慎太郎が動乱の幕末期に生れてなかったとしても郷土に名を残す偉大な人物であったことは間違いないだろう。例えば北川村での大庄屋としての業績など。
 帰り、ダルマ夕陽を見るために安芸市大山岬に寄った。ところが、昼間快晴だったのに夕刻に近づくほど曇り始め、惜しくもダルマは御簾に隠れたようなシルエットだった。それはそれで、また美しくはあった。
 南国ICに乗る手前、面白いレストラン「ゆず庵」でカツオのタタキ定食を食べるつもりであったが、満席のため、高知IC前の「土佐料理 司」まで移動した。南国ICから高知ICまで繋がる新しい道ができていたのには驚いた。
 「一番好きな食べ物は?」と問われれば、「カツオのタタキ」と答える。それは故郷を離れてのノスタルジアではなく、高知在住だった7年前でも同じ問いには同じ答えだった。好きなのだ。ほんとうに。
 折角ここまで来たのだからと、高知にいたころにはよく行ったイオン高知へ。タワレコ高知店でソウルフラワーユニオンの新譜「キセキの渚」が試聴機に入っているのを発見。高知に、である。倉敷店には入荷すら(あるいは沢山入荷したけど、即売り切れ?)していなかったのに。加古川のアコパルで買うつもりだったけど、もう即買い。高知で買うことに意味がある。
 そして本屋では「きんこん土佐日記」を購入。高知新聞で連載中の4コマ漫画だ。完全ネイティヴな土佐弁で展開される。
 その二つをフォウ・マイセルフの土産として、高速道路に乗り、倉敷へと急がずにゆっくりと帰った。