Ζガンダムで1年ハッピー!(ネタバレ注意!)

もう素顔じゃ外は歩けんね

 で、Ζガンダムを観て来た。モーニングショーの劇場は、やはりオタクたちばかりであった。時間帯のため、客数は少ないが、そのほとんどがオタク(もちろん男性)であったろう。
 で、以下、感想。如何とも言い難い。文句を言えるところは多くあるし、面白かったとも言える。何より、楽しんだ。
 端折り過ぎて、数時間の物語のように見えるが、数ヶ月か、少なくとも数週間は劇中の時間の経過があるはずだ。政治劇的ウェイトが大きいくせに、出撃また出撃で、戦略的ないし政治的状況が見え難い。整理すべきはこういう点ではなかったか。実際、第一部ではジャブロー降下作戦前の月面の状況説明的なあたりはオミットされてそれが奏功していたのだから。ハマーンシロッコのキャラクターを描きつつ、三つ巴の状況の説明を、もう少しスッキリはできなかったのだろうか。
 でも、フォウやロザミアの再登場がなかったのはよかった。TV版のあれはくどかった。しかし、くどさがΖのらしさでもある。とはいいつつ、フォウの存在がえらく軽く(カミーユの内でも)なってしまったのは残念でもある。第二部では自らの生命と引き換えに宇宙に帰してくれた恩人であるフォウの死後から数日しか経ってないのに、Ζを運んできたファアとじゃれ合うカミーユって。それだけカミーユが違った、ということでもある。
 それにシャアのダカール演説がなかったのも疑問だ。カミーユ2度目の地球降下がオミットされ、フォウ再登場もなかったのだが、シャアが自らの業を背負って、エゥーゴの代表として起つという展開は必要だったのではないか。TV版ではシャアの演説によって政治状況がエゥーゴに傾き、ティターンズ崩壊の始まりとなるのだが、映画ではまるで軍事のみで決着が付いてしまったような印象を受ける。何より、シャアというキャラクターにとって、一度は起つことが必要だったと思う。映画では、カミーユに殴られてもないし舐められてもないのだが。
 ジェリドも第二部までは敵役として存在意義があったが、三部ではただ出てきて、いつのまにかモビルスーツを乗り換えて、あっさり死ぬ。カミーユが戦いに身を投じる原因の主であったし互いに因縁があるのだから、描き込むべきところだった。いっそのこと、第二部でマウアーと一緒に死なせた方が作劇的によかったのでは。やはりΖを3部作で再構成するのは無理があった。せめて4部作にすれば、まとまりも良かっただろう。
 それで、問題の衝撃のアナザー・ラスト。やはりカミーユはアホにはならなかった。大方の予想通り、というより、それは半ば公言されていたようなものだった。ハマーンは、ミネバを自由にし、地球圏から兵を退くという。ということは、歴史は変わって「ΖΖ」の世界はなくなる。「逆襲のシャア」にも繋がらなくなる。あるいは「ΖΖ」の分のミッシング・リンクを埋める新しい作品をさらに作り「逆シャア」の世界に繋げようという意図があれば、歓迎する。そうであって欲しいと思う。。
 でも、どこにハマーンの変心の原因があったのか、シャアの行方不明にはTV版とは違う理由があるのか、よく判らなかったところもあった。もう1回以上、観るべきだ。まあ、3枚組で廉価版DVDが出たら買うけどね。もしかしたらシャアはハマーンの元に帰ったのか?そんな描写があるようには思えなかったが。
 しかし、ガンダム初体験の人にはオススメできないなぁ。かといってTV版全話見るのも大変だし、最初にガンダムの歴史系のガイドを読んでから見たほうがいいと思う。
 上映が終わった後の客席の空気というのは、微妙なものがあった。ちょっとため息にも似たような、というか。失敗作という人もいるだろう。やはり映画もΖらしい作品ではあった。難解で独り善がりな感触は富野監督の「味」であるし、魅力である。面白かったし、再度映画化する意義もあったと思う。数年後には、富野監督自身がけなすことになるであろうが。それは、毎度のことで。
 何より、この1年、Ζガンダムがあって、ハッピーであった。
 あ、でも主題歌はどれも最悪(笑)富野監督は音楽の趣味悪すぎ。劇伴はとてもいいんだが。